If You Have a Lemon, Make a Lemonade.

2024年11月03日

5-3 ブログを書けるまで3

なぜか台湾で8LOOM(ブルーム)の楽曲に出会い、心揺さぶられる体験をし帰国。
その後は日常を忙しく送っていたが、副業である整体のお客様から、家のテレビをインターネットテレビに買い替えた、という話を聞いた。
今時のそれは、YouTubeはもとより、ネット配信動画も観られるので便利だ、とのこと。

我が家のテレビはすでに20年以上選手だった。PC経由ならインターネットテレビを視聴することは可能だが、そのためにわざわざケーブルを繋げて…なんてことが手間なので試したことが無かった。

3月上旬、地元の家電量販店で、最新のテレビをリサーチしようと思い立ち寄った。
広い売り場をあちこち見て回ると、ほとんどのそれが大型化しており、我が家に入るかな?と思うほどだった。

ひとしきり見終わった頃、紳士的な店員が「何かお探しですか?」と声をかけてきた。
家のテレビが古いので、買い替えを検討していることと、我が家はSHARP製品以外の家電は壊れるので、AQUOSテレビにしたいと思っていることを伝えた。
すると、その店員はSHARPから派遣された方で、何ともビックリ!そんな出会いがあるのか…と。

先にも書いたが、我が家はSHARP以外の電化製品を購入すると、なぜかすぐに壊れる。だが、SHARP製品だと壊れない!という、不思議な縁があるため、自分で購入する電化製品は全てSHARPと決めている。ちなみに、スマホもガラケーの時代からAQUOSフォンだ。

我が家のテレビの型を伝えると、昔に比べてテレビの縁が薄くなっているので、現代の型番で納まるものを紹介してくれた。
有機ELは画質も断違いなうえ、どの角度から見ても画面がキレイに見えるのだが、値段が高すぎて手が出ないと思っていたので、液晶テレビが希望だと店員に伝えると、ちょうど新機種の入れ替え時期となるので、これまでの有機ELを値下げするという。

あ~、これってマンマと店員の術中にハマってるな…と感じつつも、その方の嫌みがなく裏表のないセールストークは信用出来る気がしたので、詳しく話を聞くことにした。

有機ELと液晶の差を見せられると、やはり前者が欲しくなるものの、やっぱり高いな~~と悩んでいると、SHARP店員だからこその破格値を提示してきた。しかも、その場でネットで検索しても、十分対抗できる価格だった。ならば!と、即決した。

通常、買い物に関してはというより、高額商品を即決することはまずない。家に帰って、他もリサーチして良く良く吟味してからでしか動かない私だが、その時はなぜか「行け~!」という天の声が聞こえたように感じるほどの勢いを感じた。

その翌日、我が家に新しいテレビがやってきた!

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※写真はイメージです。

2024年11月02日

5-2 ブログを書けるまで2

10年間の介護の日々を文章にし世に出す手段として、以前から続けているブログにするのが良いかな…と、漠然とは考えていたものの、どういう構成にするのか?母のことを中心に書くとはいえ、家族のことも書く必要性があるので、その了解も取らねばならない。

ブログという手段を使うと決めたものの、書き出しをどうするのか?写真は入れるのか?時系列で綴るのか?情報発信の手段として、SNSも利用するのか?などなど、考えれば考えるほど沼にハマってしまい、どうにもこうにも身動きが取れなくなってしまった。

話しは前年に遡る。

2023年9月に友達と台湾に行った。
ホテルの部屋のテレビはYouTubeが見られるものだった。何とはなしにそれを選択すると、日本のボーイズグループの履歴があった。

これまた何気にクリックすると、そこに現れたのが、2022年10月から放送されたTBSドラマ「君の花になる」内で期間限定として活動していた8LOOM(ブルーム)の楽曲だった。

それを見た瞬間、ズキュン!と胸打たれたことを今でも憶えている。何だろう?この感覚は…。
台湾にいる間、なぜか友達とずっと彼らの動画を見続けた。何しに台湾へ行った?と思うほど、ハマっている自分がいた。

このドラマもタイムリーで見ていたし、8LOOMがCDTVに出演していたのも観ていたことを思い出した。あ、これって、あの時のか…という感じで、なぜかその当時の記憶が様々蘇った。

台湾でまさかのイケメンを見れて幸せね~なんて友達と話しながら帰国した。
その後はまた日常に戻ってしまい、8LOOMのことはすっかり鳴りを潜めていた。

2024年に入って母が亡くなり、様々な雑務に追われる日々のなか、副業としている整体でのお客様の一言に私のセンサーが反応した。

【関連記事】5-1 ブログを書けるまで1

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※台湾で宿泊したホテルの部屋。このテレビで8LOOM(ブルーム)の動画を観た。

2024年11月01日

5-1 ブログを書けるまで1

今日からこのブログを書くことになった経緯や、その原動力との出会い、今後の展望について書いていく。

両親の介護は16年間に亘った。最初は緩やかな介助くらいであったが、徐々にそのハードルは上がっていき、6年目に父が慢性腎不全で亡くなった後、母の介護が始まった。

母との介護生活10年間のうち、介護のメインとも言うべき、下(しも)の世話に携わったのは3年くらいだろうか。それとて徐々に対応回数が増えていくことになる。
それ以前は、身体的なサポートもそうだが、どちらかといえばメンタル面のサポートのほうがウエイトを占めていたように思う。

母は子供に対する依存心が強いので、放置するとどんどん愛情過多になっていく。そこをタイミングを見て、ひとりの人間として精神的に自立することを促す話をずっとしていた。

介護において孤独になる原因のひとつに、親子共依存がある。
私は昔から人とつるむのが苦手なので、親との関係においても同様であるため、母が依存してこないよう、時には厳しく突き放すこともあった。そのたびに母は「私を捨てるのか!」と泣くのだが、それを振り払わなければ、親子共倒れになってしまう。

そんなヘビーな一面がありつつも、老いていく身の上に不安を感じる母が少しでも楽になるよう、日々の粗相もすべて笑いに昇華していくことを心がけていた。

親にしてみれば、子供に下の世話をしてもらうこと自体屈辱だろう。それでも、世話にならざるを得ない現実なのだから、それを受け入れてもらえるよう、それが自然な形であることを母が納得するまで話し続けた。

そんな日々のことを知っている方から「それを書いて、世に出したほうが良いよ」と言われた。その方は会うたびにずっと言い続けてくれた。

介護の世界は新分野だ。私と同じように介護や親子関係に悩んでいる方もいるだろうし、実際、自分の周囲でもそういう話がちらほらあったこともあり、いつかは着手せねば…と思っていた。

それもあって、日々の出来事を手帳にメモしたり、施設や病院からの書類等は整理し保存してあった。

だが、それをどういう形で世に出すのか?母が亡くなってからずっと考えてはいたものの、なかなかまとまらずにいた。

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2024年10月31日

4-12 Chapter4の振り返り

2024年1月1日に母が天寿を全うした。

本来なら2023年中にそうなっていてもおかしくなかったが、母の強い願いと祈りにより、元日の恒例行事が滞りなく終わってから逝った所業は、まさにアッパレ!としか言いようがない。

斎場や火葬場は行政管理のため、3が日は休みにつき、それ以降の対応となる。忌引き休暇等の兼ね合いもありどうなるかと思ったものの、その期間中に予約が取れた。

この日が来ることは想定内であったものの、実際葬儀に向けての諸準備はアレヨアレヨという間に進んでいくうえ、待ったなし!の状況だ。逡巡している暇はないが、母が生前願っていたことを軸に、兄姉とも相談のうえ、葬儀の手配が整っていった。

その日は、兄、姉家族も揃い、斎場での受付も孫やひ孫達が対応した。
母はキレイにしてもらい、美しい旅立ちの衣装を身にまとい、たくさんの花々で装飾された祭壇で、念願だった教会の先生に葬儀を仕えてもらうことが出来た。
1日葬だったので、その日のうちに火葬場へと移動し、家族皆で母の骨上げをし壺に収めることが出来た。

葬儀後は納骨まで十日おき、五十日祭までの旬日祭も教会にて仕えていただいた。
実務的なことでは行政手続きや参列者への返礼送付、病院の後日精算といった細々した事柄もクリアーしていった。
四十日祭後には沖縄に旅行し、母と行った場所を巡ることも出来た。

母が霊(みたま)となってから一度も現れなかったが、葬儀前にあの世で元気にやっていると、一度だけ現れてくれ、その嬉しそうな顔が今も脳裏に焼き付いている。

年明けに手術を控えていた兄は、母の葬儀に参列出来るか不明であったものの、手術1週間前に葬儀となったため、無事に喪主も務められたうえ、術後の経過も良く、元気に日々を過ごすことが出来ている。

3月が誕生月である母、93歳の誕生日を前に、家族揃って納骨を見届けることが出来た。

11月からは、私がこのブログを書けるようになるまで、つまりは、真の意味での元気を取り戻すまでのことから、これからの展望について書いていく。

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starfield_152 at 07:00|PermalinkComments(0)Chapter4 | 2024(92歳)年

2024年10月30日

4-11 葬儀後6

母が2024年1月1日の夕刻に亡くなり、7日に葬儀と十日祭を併せて、二十日祭、三十日祭を1月中に、四十日祭、五十日祭は2月にそれぞれ旬日祭が仕えられた。

3月は母の誕生月で、93歳を迎えることは出来なかったが、その直前に母の願いで建てた墓に遺骨を納めることが出来た。この際にも、教会長にお出ましいただき、青空が広がる小高い山の上にある霊園にて、納骨の儀が執り行われた。

この墓には、母方の両親(私から見ると祖父母)、妹、弟達も埋葬されている。
母は6人姉妹弟だが、そのうち3人は幼いうちに腸チフスで早逝、姉は母が70代の頃に、妹の一人は母が30代の頃にそれぞれ病気で亡くなっている。

母だけが病気も事故等もなく、寿命を全うしたことになる。

母は幼い頃、妹弟達が次々と腸チフスに感染したことで、親戚の家に預けられ、寂しい子供時代を過ごしたと、何度か聞いたことがある。その影響からか、依存症的な感情を持ち合わせていたので、家族に対する愛情過多な面もあり、私としては少々辟易することも多分にあった。

それでも母なりに懸命に日々と向き合い、結婚して3人の子供を授かり、多くの困難と取り組まざるを得ない状況を潜り抜け、時には入院するようなこともあったものの、おおごとになることもなく、92歳まで生かされてきた。

そんな母のことを思えば、亡骸になった後に出来る親孝行といえば、生前の願いを叶えてあげることくらいだろう。

そういう意味で、これもまた、母の願い通りとなった。
姉夫妻、姉家の子供達や孫達も参列し、家族で母の納骨を見届けることが出来た。
母から見たらひ孫にあたる子らも、一人一人墓前に花を手向け、ひいばあちゃんの冥福を祈った。

納骨でようやく一区切りとなる。明日はChapter4を振り返る。

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