If You Have a Lemon, Make a Lemonade.

2024年06月16日

1-11 笑う門には福来たる

2015年は4回旅行した。知らない土地で新たな発見や出会いがたくさんあり、母にしてみれば全てが未知との遭遇だったことだろう。

初沖縄で行った今帰仁城での出来事だが、母と城の跡地のある一角に立ち「ここはエネルギーがスゴイね!」と話していた時のことだ。そこに若い一人旅の男性が現れた。

母が「ちょっと、ちょっと、お兄さん!!ここ来てみない!(九州弁)」と声をかけたのだ。昔の母からは考えられない大胆な行動に私は仰天したが、その男性は笑顔で私達の所に来てくれた。
母は「ここに立ってみない!(九州弁)」と、エネルギーが充満している場所にその男性を立たせた。すると、その方は「あ!」と気付いたようで、そこから3人のスピリチュアル談義が弾んだ。
その方は大阪から一人旅で来ていて、沖縄の史跡巡りをしていることや、これから南部に行くといった話もしてくれた。

彼との別れ際に母が「うちの娘どうですか?」と放った。
「は?え?何言ってんのぉ~!」とビックリを通り越して、驚愕するばかりだったが、互いに3人で顔を見合わせて、大笑いしながら締めくくることが出来た。

一連の出来事を真に受けると「何でそんな失礼なことを言うの!」となるが、これがネタ?だと思うと面白過ぎるし、立腹するようなことをネタに変換すると、全て笑いに昇華出来るのではないか?と気付かされた。

そんな母は計算しているわけではないのに、私のツボにハマるような発言をちょいちょい繰り広げるようになった。マジでお笑い芸人も顔負けなツッコミをぶっこんでくるのだ。その度に私は腹を抱えて大笑いするのだが、それを見た母が釣られて笑いだすようになった。

一見失敗と思えるような事柄もネタにする!介護のコツはまさにコレだ!!と学んだ旅となった。

240616


2024年06月15日

1-10 旅行三昧

2015年は1月に沖縄本島、3月に伊豆、10月に石垣島、小浜島、竹富島、11月に山梨を母と旅行した。
私が沖縄好きなこともあり、いつか母にもあの美しい海と空、大自然を満喫させてあげたい!と思っていた。

1月下旬の沖縄はちょうど緋寒桜が見頃であり気候も良いので、この時期を選んだ。
那覇に到着した日は市内の温泉のあるホテルに宿泊した。

翌日レンタカーで桜の咲く今帰仁城と八重岳に向かった。東京ではまだ寒いこの時期だが、沖縄はすでに春の陽気で、陽射しが出ると暑いくらいだった。
少し濃いピンク色の緋寒桜を母は初めて目にし、笑顔で写真にも納まってくれた。そこから少し離れた場所に伊江島が眺められるピザ屋さんがあるので、そこを目指した。

高齢の母だが、ピザやエスニック系の料理も好きなので、眺めの良い場所でランチを堪能し、その日は本島北部まで一気に北上。国頭村にあるオクマプライベートビーチ&リゾートに宿泊した。ここはコテージ式のホテルで、プライベートビーチ、大浴場、広い庭もあるため、のんびりするだけでも十分癒される空間だった。

翌日、以前から行きたかった「大石林山」へ向かった。ここは敷地そのものが聖地であり、祈りの場所だ。
母は霊感体質で、私も若干その気がある。そのせいか?大石林山内で写真を撮ると、時空の歪みのような、気の流れのような、不思議な写真ばかりが撮れた。
ガイドさんの案内で、神様が宿っていると言われる岩を撮ると、そこに燦然と光り輝くものが写り込んでおり…。ガイドさんにそれを見せると「ここは昔からそういう場所だし、撮れる人には撮れるんですよ。ところで、あなた何者ですか?」と聞かれた。
母と一緒にいることで、私のエネルギーが高まったせいなのか?この後ここには何度も訪れているが、この時と同じような写真は撮れていない。やはり母と私の相乗効果だったとしか思えない。

その後は中部に戻り、日航アリビラホテルでホテルライフを満喫。最終日は首里城や第二王朝王室の墓である玉陵(たまうどうん)にも参拝した。ここでも不思議なことが起きたのだが、この手の話を書き出すとキリがないので、今回はこれくらいに留めておく。

そんなこんなで、母の初沖縄は無事に楽しく過ごすことが出来た。
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※オクマプライベートビーチ&リゾートの桟橋で撮った母。
余談だが、今年の2月に昨年の秋に予約していたこのホテルに私は宿泊した。年始早々母が召されることなど予想もしていなかったので、不思議な巡り合わせを感じた。


2024年06月14日

1-9 怒らないことの意義

介護においてというより、人生において「ままならないこと」「自分の思い通りにいかないこと」があると、人は立腹気味になり易い。

生まれた時からずっと一緒にいる親兄弟姉妹であれば、その沸点はかなり低くなりがちだ。
そこには家族だから「分かっているだろう」「分かってくれるだろう」という無意識の「甘え」が根底にあるからだ。

殊に母親には甘えを抱きがちだし、老いて弱っていく姿を見たくない!信じたくない!いつまでも自分の母であって欲しい!という願望が先に立ってしまう。

だが、良く良く考えてみれば、それは自分のエゴでしかなく、老いた親に鞭を打つことではないか?とも思う。

怒ることはエネルギーが要る。
私の母も沸点は低いほうなので、子供の頃からしょっちゅう怒られていたが、自分が逆の立場になると、怒ることは精神的にも肉体的にも相当にしんどいことだと分かる。

自分も50歳を過ぎてからの介護であり、出来ないことが増える親に向かって怒りの感情を持つこと自体に疲れを感じるし、それを母にぶつけたところで何の解決にもならないどころか、母も私も共に傷付くだけだ。

人生において「怒り」の感情が必要な側面もあるが、介護に至ってはその必要はないと思うし、介護される側、する側が心安らかな日々を過ごしていくには、穏やかな空気が流れることが何より大切だと思う。

そんなわけで、私は「怒らない」と決めたのだった。

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2024年06月13日

1-8 それぞれの覚悟

長い年月かけて培われたパーソナリティが、老いて子供に軌道修正されるストレスは、母にとって相当なものだったろうと思う。自分の身心なのに老いて出来なくなることが増えたこと、周囲に迷惑をかけているという自責の念、情けなさ、やるせなさが胸中に渦巻いていたことだろう。

母の介護に突入した時に決めたことのひとつに「怒らない」というのがある。

介護は人類にとって新分野でもあり、未知の世界でもある。何せ、人類においてこんなに長生きをしているのは、ここ数十年のことでしかないのだから、ある意味介護は時代の最先端だ。
どんなに介護のことを調べても、お手本となる事例は少なく、各人の環境や性格によって対処方法は千差万別であることを知った。

そうなると、どうすれば母も私も共にキツクナイ生き方が出来るか?それを考えた。

これまでの元気な親しか頭にないと、老いた姿、出来ないことが増えた場面を見ては失望し、それが怒りに変わると言うのは良くある話だ。それは、子である自分が親の老いを認めたくない、というのが根底にあるから、悲しさ、寂しさが怒りに変わり、その感情を親にぶつけてしまう、つまりは甘えに繋がるのだ。

その図式を理解した時、私は「怒らない!」と決めた。

もちろん、怒りが湧く時もあるが、そういう時は心が鎮まるまで口を開かないし、その感情は甘えであることを自分に言い聞かせた。

母は「老いていくこと」に、私は「ままならない現実と向き合うこと、逃げないこと」を覚悟した。
それが介護なのだということを更に自覚したのは、もっと先のことだった。

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2024年06月12日

1-7 三つ子の魂

「三つ子の魂百までも」という諺の通り、人間の本質がそう簡単に変わることはなく、母の気質も同様だった。どんなに褒めちぎっても、バックグラウンドにあるネガティブ思考はそう簡単には抜けきらず、ネガティブとポジティブの闘いの様を呈していた。

私も30歳頃までは母のネガティブ思考に支配されていたが、32歳の時に始めたダンスのおかげで、そこから脱却することが出来た。ダンス仲間はポジティブな方が多く、私の思考が「おかしい!」と指摘してくれた。これは私にとって目からウロコだったし、仲間のおかげで私は180度ひっくり返るほどのポジティブ思考人間になれた。

人間、物事を悪いほうに考えればいくらでも悪くなっていく。楽しいことを想像すると、自然と物事は好転することも、ダンスを通して学んだので、それを母にも味わって欲しいと思っていた。

私がダンスを始めた時は一人暮らしをしており、トータル7年ほどダンスを習い続けていたが、その間にも母からは「何のタメにもならないのに、なんでそんなものを習ってるの!さっさと辞めなさい!」といつも言われていた。
母の言うように、プロになるわけでも、それで食べていけるわけでもないのだが、その時の私にはダンスが必要不可欠であり、心から踊ることが楽しくて仕方がなくて、仕事帰りにもほぼ毎日のようにダンススタジオに通い、多い時には年間3~5本の舞台にも立っていた。

だが、ダンスを習った経験は、今、私が副業(本業はWEB制作)としている整体師にとても役立っているし、私がそれになることを一番喜んだのは母でもあった。

240612