If You Have a Lemon, Make a Lemonade.

2024年06月11日

1-6 褒める、感謝する

子供を育てる時「褒めて伸ばす」と言うが、介護も同じだなと思う。

母の子供時代は時代背景の影響もあるが、褒められることはまずなく、出来ないことばかりを叱られてたというより、罵倒されて育っているので、物事に対する見方が基本的にマイナス思考であり、常に悪いことが起きるのではないか?という考えが土台にあった。

そんな母なので、急に娘から毎日のように褒めちぎられることに相当の抵抗があったらしく、ある日「あんたは親をバカにしちょるんかい!!(九州弁)」と大目玉をくらったことがある。それは、褒め慣れてないことから来る不安と、老いた自分がバカにされているのではないか?というネガティブ思考が発動したことで出た言葉だ。

そんな母の繊細な機微に気付かなかったことに反省はしたものの、ここで怯んではダメだ!と思い、これまでの母の生きざまを振り返り、これだけのことを成し得てきたのだから、それはとてもスゴイことだよ!と冷静に話すと、怒りでプルプルしていた口角が徐々に柔和になっていった。
母はその時々を生きるのに必死で、振り返る暇もなかったことが分かった。

体力が落ちて家事も満足に出来なくても、テーブルを拭くこと、食べた食器を下げること、人が来たら玄関に出ること…といったことはまだまだ出来る。これから出来なくなることが増えていく一方で、今出来ることを褒める、感謝する、そこに私は重きを置くよう心掛けた。

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2024年06月10日

1-5 子供に還る

人は最期に向かう時、この世に生まれた時のように「子供に還る」と思っている。
この世に悔いを残さないということは、今世に満足出来た、ということでもある。

母は寂しい幼少期を過ごし、20代から親の介護に追われ、結婚してからも苦労の絶えない人生だった。戦後の混乱期では、まだ女性が自由に生き方を選択出来ない時代でもあり、否が応でも家族や親戚の意向に従わざるを得なかった。

自分の人生でありながら、周囲に流されままならない人生を送った母は、正義感が強いため、時に他者を責めたり、情緒不安定になったり、打たれ弱いメンタルの持ち主でもあった。それを悟られまいと、必死で心に鎧を着て奮闘していた。

私に子供はいないが、甥、姪が5人おり、幼い頃からその姿を間近で見て来たので、疑似子育ては体験させてもらっている。
彼らのかわいいことと言ったら!そんな思いで母に接すれば良いのだとも思ったし、母が彼らのように純粋無垢な笑顔になってくれるなら、これほど嬉しいことはない!と思い、それを一つの目標にした。

母が自分の育てた娘に弱みを見せ、純粋な心持ちの子供に還ることは容易ではなかったろうとも想像する。
時に癇癪を起したり、地団駄を踏む日々もあったが、その度に私は「サカエちゃんはこれまで十分頑張ってきたよ。スゴイことだよ!!」と、母を褒めるようにした。

褒めて褒めて褒めちぎる!それが母に安心して子供に還ってもらえるための最初の策となった。

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2024年06月09日

1-4 親子逆転

九州旅行で子供達と楽しい時間を過ごし、自分は大切にされているのだと実感した母は安心したのか?穏やかな顔つきで、時にはわがままを言うようにもなり、幼い時分に甘えられなかった境遇を取り戻すかのようだった。

ここで私が悟ったのは「母ではあるものの、もう母ではない」ということだ。
正確に言うと、母という役割から解放し、一人の人間として、人生の取りこぼしを回収させてあげたい!という思いが沸き起こった。

だからといって時を巻き戻して子供にすることは出来ないが、私が親という立場になり、母を子供にさせてあげることが、この世に悔いを残さないで済むことの一つではないかと…。

それまでは「お母さん」と呼んでいたが、下の名前「サカエちゃん」と呼ぶことにした。

最初は母という役目が終わることへの葛藤や迷いがあり、時に声を荒げて怒ることもあったが、これまでの人生で精いっぱい母親役を全うしたこと、これからは自分のために好きな人生を歩んで良いことを話すと、徐々に冷静さを取り戻し、数日後には「ちゃん付け」で呼ばれることを受け入れてくれた。

この頃には食欲も筋力も以前より落ちていたし、時には発熱して寝込むこともあった。
とはいえ元々持病もないので、医者に罹ることもなく元気に過ごしてはいたが、体力の衰えと共に、心も少しずつ子供に戻っていく様を間近で感じるようになっていた。

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2024年06月08日

1-3 過干渉回避策

親が私のことを心配し、あれこれ気遣ってくれるのはありがたいことだが、自分のことは自分で出来る私にしてみればかなり鬱陶しいことが続いた。

この当時、母の体力は以前より落ちており、家事をする機会も減っていたので、家の中のことはほぼ私がこなしていた。
そんな私の後を金魚のフン?のように付いて回っては、あれこれ話しかけてくる。
まさに、親子の立場が逆転した状態だった。
このままでは、私のストレスも溜まるばかりだし、そのうち母にキツイことを言ってしまうかもしれない…。

母の気持ちを逸らすため、家にいる時は母の話を聞いたり、ボケ防止のためにトランプやオセロをしたり、昔懐かしいお手玉で遊んだり、散歩に出かけたりもした。母は歌が好きなので、歌番組を見せたり、CDを聞いたりと、出来るだけ母が穏やかに安心して過ごせる環境作りを始めたのもこの頃からだった。

父の葬儀後、旅行の提案をした。
父がいる頃は、母は自分の意思で旅行することは出来なかった。
母に行きたい場所を聞くと、九州にいる息子家族、自分が育った土地(九州)に行きたいと言う。父の本家の墓もそこにあるので、それならばと、姉夫妻も誘って皆で九州に行こうと決めた。

ひとつ楽しみが出来ると母の気持ちも明るくなる。
兄、姉と相談し、母のお疲れさま旅行と題して、家族で5日間の九州旅行を満喫した。

飛行機に搭乗すると、母は窓際の席で雲の上の景色を子供のようにキラキラした目で眺め続け、始終ご機嫌だった。この時母は「うち、飛行機が好いちょる」(九州弁)と言った。それを私も初めて聞き、母の知らなかった一面を見せてもらった。

母の子供時代は、妹弟達が感染症に罹患しては亡くなっており、その度に親戚の家に預けられたりして、かなり寂しい幼少期を過ごしたそうだ。10代の思春期は戦争の時代で、青春を謳歌するどころではなかった。

83歳にして初めて母は飛行機の窓から眺める景色を堪能し、これから過ごす九州への旅に期待を膨らませているのだろうと思うと、母に「安心して子供に戻ってもらいたい!」と、私は漠然とした願いを持った。

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※この写真は実際に母が眺めていた機内からの景色

2024年06月07日

1-2 過干渉

父の葬儀が2014年6月、納骨は8月に行われた。

両親の仲は決して良い方ではなかったし、私が子供の頃は、両親が喧嘩をしない日は殆どなかったので、それがとてもイヤだったが、昔からお互いが言いたいことを我慢せず言い合っていたことを思うと、それが二人のコミュニケーション方法だったのだろうと、今は思う。

昔から母は和裁、洋裁、編み物等が得意で手先が器用だったため、再同居を始めてからは、近所にあるカルチャースクールでパッチワークを習っていた。作品を作る楽しさがあるからか、父がいなくなっても、さほど寂しそうには見えなかった。

とはいえ1日中家で裁縫をし、他人と関わることが得意でなかった母の関心事といえば、どうしたって子供や孫のことになる。

我が家は兄、姉、私の3人兄姉妹だが、兄は九州に住んでいるため頻繁に会うことは叶わない。
姉は近所に住んでいるが、子や孫の世話が忙しく、親の介護までは手が回らないのが現状だった。

そうなると、母の視野に入り易いのは私だけとなり、50歳目前の娘の行動ばかり気にするようになっていく。表向きは元気そうに見えるものの、その裏では過干渉になることで寂しさを紛らわすのと、一人ぼっちにされてしまうのではないかという不安を抱えていたのではないかと思った。

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