If You Have a Lemon, Make a Lemonade.

2024年10月29日

4-10 葬儀後5

母の葬儀後に、入院していた病院で利用していた病衣・タオルセット、紙おむつセットの請求書が届いた。

今回は21日間の利用だったが、入院費用より高い請求に、毎度のことながら驚かされる。
入院費用は標準負担額減額認定証があるため、上限金額が決められているので必然的に安くなるが、保険適用されないものについては、容赦なく正規料金がかかる。

10月3日の記事「3-39 救急搬送4(入院手続き、費用のこと)」にも書いたが、私が住む街は要介護3以上の高齢者は無料で紙おむつが行政より支給されるので、病院だけが高額請求してくるのが納得がいかなかった。その辺の連携が行政と取れていると良いのにな…というのが正直な感想だ。

だが、12月の母の入院時に、看護師ではない方が病室を回りながら、順番に紙おむつの交換をしているのを目撃した。この方達はいったい誰?と思っていたが、その後、ドラマで見た「ナースエイド」であることが分かった。

ナースエイドとは、看護補助者のことだ。看護師では手の回らない日常のケアや患者達の話し相手になったり、状況を判断して、医師や看護師に繋いでくれる。
その方々が定期的に対応してくださるおかげで、スムーズなおむつ交換がなされていることが分かった。これらの請求が高いのは、もしかして対応混みの料金なのか?と想像した。

患者のなかには暴れる者、交換を拒否する者、叫ぶ者もいた。こういう状況下でも笑顔で対応くださるナースエイド。料金が高いなどと文句を言ってすまなかった!!と、一人反省会をした。

この料金にそれらが含まれているかどうかは定かではないものの、お世話くださる方には感謝しかない。

いずれにしても、もろもろの精算は無事に終わった。

【関連記事】4-6 葬儀後14-7 葬儀後24-8 葬儀後34-9 葬儀後4

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2024年10月28日

4-9 葬儀後4

話は少し遡る。

母の葬儀が1月7日に行われることになったが、九州にいる兄が上京出来るか微妙な雰囲気だった。

前年12月26日、母の命の期限がもうすぐそこまで来ているという時に、兄、姉とグループ通話で今後の相談をした。生きている間に葬儀の話をするのも何だが、亡くなってからでは間に合わないので、その日のために、喪主は誰がするのか?葬儀は1日葬で良いか?等々といったことを話した。

事前に私が準備していた、母の願いを盛り込んだ葬儀内容を伝えたところ、二人共賛成してくれたが、喪主については、兄が「出来ないかもしれない」と言った。理由を聞くと、言いにくそうに「病気が見つかり、1月早々に手術する」と。

早期発見のため、大事には至らないとは思うものの、実際手術をしてみないと分からないこともあるし、術時の検査結果によっては入院が長引くこともある、とのこと。

兄にしてみれば、母と離れて暮らしているうえに、葬儀にも出れないことは本意ではない。自分の出来ることはしたいと思うものの、母の死期や葬儀がいつになるかは誰にも予測出来ない。

それを踏まえつつ、今後のことを相談しながら進めていたわけだが、母が元日に亡くなり、1月7日に葬儀が行えることになったおかげで、兄は無事に喪主を務めることが出来た。

兄夫婦は1月8日に帰宅し、翌週15日に入院、16日に手術となった。
手術は無事成功し、術後の経過も良く、予定通り22日には退院し、驚くことに翌日から仕事にまで行っていた。

術中の検査結果が2月14日に判明したが、結果はパーフェクトで何の問題もない、とのことだった。その後の体調も良好で、今も元気に仕事に励んでいる。

母が亡くなる直前に膵臓近辺に腫瘍が見つかった。兄は母が自分の分を持って行ってくれたのではないだろうか…と、話していたのが印象深かった。

実際のところ、それが真実かどうかは誰にも分からないが、子供思いの母のことだから、きっと兄の窮地を察し、それを自分が持って行ったのだろうと想像している。なぜなら、それまで母にはそんな兆候はまったく無い、健康体そのものだったからだ。

我が家は昔からそういうことがちょいちょいある。これも信仰心の成せる業だろうか…。
目に見えない世界のことは想像でしか語れないが、子供が元気に日々を送っている姿を見ることは、誰よりも母が一番喜ぶことだ。

きっとあの世から母も安心して見守ってくれていることだろう。

【関連記事】4-6 葬儀後14-7 葬儀後24-8 葬儀後3

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2024年10月27日

4-8 葬儀後3

母が元日に亡くなったが、今まで一度だけしか夢に出てきたことはない。

というのも、母も私もちょっとばかり霊感があり、亡くなった人が出てきたり、現実世界で見えたりすることがままある。

父が亡くなった時は、1年くらい「あれが食べたい、これが食べたい」と煩悩バリバリ全開で夢に現れては、食べたいものを供えるよう所望していた。なので、面倒ではあるものの、一日でも早く昇天いただくためにも、希望通りのものを供えていた。

その甲斐あってか、2年目になると出現回数は減り、3年目にはあまり現れなくなり、3年目が終わる頃に「もうあっちに行くから、今まで引っ越さずにいてくれてありがとう!もういつ引っ越しても良いよ」と笑顔で現れたことがある。
これを境に、父の煩悩の訴えは無くなり、バリアフリーの家を探していた私達は無事に引っ越すことが出来た。

関連記事:1-18 天へ還った父1-19 ありがたいご縁1

霊感の強い母なので、亡くなってからもあれやこれや心配して出てくるのかと思いきや、まったくその兆候も気配もない。兄や姉からも聞かれるが(二人は霊感があまりない)「出てこないんだよね~」と話していた。

すると、葬儀前くらいだったろうか…深夜、母が私の寝ている所にスーっと現れ、私の手を引いて、いわゆる天の国へ連れて行ってくれた。

そこにはたくさんのお仲間がいて、皆楽しそうにしている。
母は自分の座る席を指さし「ここがウチの席ばい!(九州弁)」と満面の笑みだ。
どうやら、母がいる場所は、亡くなった方達が右往左往している賑やかな場所ではあるものの、それぞれに座るべき席みたいなのがあり、母はご満悦なほど良い席にいるらしいことが分かった。そこでは周囲の方達と楽し気に語らっていた。

ということは…母は天国で楽しくやっている!ってことか…と思った瞬間、ストンと私の身体はベッドに戻っていた。母は多くを語らなかったが、あの世で楽しくやっているから心配ないよ!と伝えに来たようだ。
それ以後、今日に至るまで一度も現れないので、変わらずにいるのだろう。

そんなことも、葬儀後に家族に話し、皆が安心した…ということもあった。

※目に見えない世界の話なので、信じるか信じないかはあなた次第ってことで…。

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2024年10月26日

4-7 葬儀後2

母の葬儀後、日常が戻ってきたように見えるものの、その後の事後処理があった。

死亡届は葬儀屋から役所に提出されたので、無事に葬儀が出来た。
後は年金、保険証(国民健康保険・後期高齢者医療制度等、介護保険被保険者証、介護保険負担割合証等)の返還、国民健康保険加入者葬祭費の請求、住民票・戸籍等の証明発行…といった役所での手続きや、葬儀に参列いただいた方、遠方より香典を送ってくださった方々への返礼など…諸々の手配が必要だった。

母の知人はもとより、生前、我が家に遊びに来ていた友人らからも、お花や香典をいただいた。母のこともそうだが、私のことも心配し、方々から連絡をくださったり、葬儀後に自宅まで参拝に来てくれた友もいる。

我が家が信仰する神道では、十日祭、二十日祭、三十日祭、四十日祭、五十日祭と、節目に御霊を祭る。これは任意ではあるものの、母の信仰心を讃える意味もあり、きっちり全ての祀りを教会にて行った。
五十日祭が一つの節目であり、あとは納骨までに、もろもろの準備を粛々とこなしていくだけだった。

四十日祭が終わった2月11日より、前年に予約していた沖縄旅行を友達と行ったのだが、そこは2015年に母と泊まった場所だ。
ホテルは今年で45周年の節目の年で、お祝いムードが漂っていた。沖縄本島の最北にあるので、コロナ禍にも負けず営業存続出来たこと、母との思い出の場所に還ってこれたことは、嬉しいことだった。
関連記事:1-10 旅行三昧

翌週18日には五十日祭を終え、3月10日には無事に納骨まで済ませ、これで完全に母を見送るための儀式、手続きは完了した。とはいえ、その後も行政関連の書類提出などのやりとりは続いた。

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2024年10月25日

4-6 葬儀後1

母の葬儀を無事に終えた晩は、家族皆で夜の宴を催した。
九州から上京した兄夫婦とは滅多に会えないので、母の思い出話を肴に?皆で楽しいひと時を過ごすことが出来た。

もし母が何かの病気や事故などで亡くなっていたとしたら、このような宴を開く気にはなれなかっただろう。92歳という大往生で、子、孫、ひ孫らにも別れを告げ、旅立って行けたのだから、これほど目出度いことはない!!

翌1月8日は祝日のため、葬儀で供えられていた食材を調理し、我が家で再びの宴を開いた。
供え物には大きな鯛があり、それを捌く大仕事?があり、義姉と二人で解体に挑み、それを供え物にあった大根と一緒に煮た。大きな鍋いっぱいにあったそれも、家族皆で食べるとあっという間に無くなった。

母の子供の頃からの古いアルバムがあったので、それを皆で見ながら、改めて母を偲んだ。
私達の知らない母の若かりし頃のこと、兄、姉、私の幼少期のそれなどを皆で見ては大笑いし、話に花が咲いた。
我が家の神棚には母の遺骨と遺影が置かれている。母もきっと一緒に皆とこの宴を楽しんでいるのだろうな…と思えたひと時だった。

母の死という一見悲しく見える出来事であっても、私達家族にとっては、無事に母を見送れた安堵感と、家族の絆を再確認出来た感慨深い日となった。

翌9日、兄夫婦は九州へと帰った。私は日常モード再開で、職場へ通勤した。

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※写真はイメージです。

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