If You Have a Lemon, Make a Lemonade.

2024年10月24日

4-5 葬儀4

2024年1月7日、葬儀を終えた後、11時半に出棺。
12時、火葬場にて祭主が火葬の儀を執り行い、母と最後の別れの時を迎えた。

火葬の間、家族、親族、知人ら会葬者は、火葬場の広間にて昼食を頂いた。
母が大往生での今世との別れなので、悲壮感はまったく無く、皆で母の思い出話などで盛り上がった。

なかでも印象深かったのは、姉の夫である、母から見ると義理の息子が皆の前で挨拶をした際、若い頃、姉と結婚したいと我が家に来た時の話や、その後子供達(母から見たら孫)が生まれ、少しずつ母と仲良くなっていく様が語られ、義兄にも母との思い出がたくさんあったのだな…と、しみじみしてしまった。

食事の間、葬儀屋との会計精算があった。こういう場面は何ともリアルな日常を突き付けられた感があるものの、母が願った通りの葬儀、火葬が出来たこと、葬儀屋はそれが仕事ではあるものの、短期間でこちらの希望を最大限叶えてくれたことには感謝しかない。

火葬終了の案内後、会葬者全員で収骨をする際、ひ孫達はその骨をジーっと見つめ、フリーズしていた。
幼い子供にはショッキングなことかもしれないが、こういう場面を体験することで、人の死を学び、自分達に繋がっている命があることを何となくでも感じてもらえたら、それが人生の糧となってくれたらな…と、思わずにはいられなかった。

子、孫、ひ孫達、会葬者全員で母の骨を壺に収めることが出来た。

母の遺影、骨壺を携え、私達家族は帰宅の途に着いた。

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2024年10月23日

4-4 葬儀3

2024年1月7日、母の葬儀が10時より斎場にて行われた。

この日の受付は、姉家の長男(私から見たら甥)と、その娘(中3)が担当してくれた。
赤ん坊の時から見ていた甥が、今や父となり、その娘は母にとって初ひ孫でもある。
そんな二人がきちんと受付の対応をしている様を見て、私も嬉しかったし、何より母が喜んでいるだろうと思った。

以下、式次第。
①参向(祭主 入室)
②会葬者一同にて拝礼(一礼、偲び手(音を立てない)四拍手、一礼)後、神様への御礼の拝詞を唱える。
③祭主 告詞(故人の御霊に対し、今からご葬儀をお仕えすることを告げる)を奏上。
④祭主 霊標奉斎(故人の御霊としてのお名前を掲げる)
⑤祭主 祭詞奏上(生涯お世話になった天地のお働きに対し、故人に代わり、生前の御礼を申し上げ、同じくお働きを受け続けられるようお願いを申し上げる。続いて故人に対し、死を悼み、御姿にお別れを申し上げる)
⑥祭主 献花
⑦遺族、親族、会葬者 献花
⑧一同 新しく御霊となった故人への拝詞を唱える。
⑨一同 拝礼(一礼、偲び手(音を立てない)四拍手、一礼)
⑩退下(祭主 退出)

以上で一般で言うところの告別式が終了した。
この神道での葬儀は、母が生前より願っていたことであり、そのためにも九州より墓を移送し、改式をした経緯がある。母の長年の祈りが結実した瞬間だ。

その後、出棺のため、棺に会葬者全員で花や供え物を手向け、長男(喪主)である兄が会葬の御礼挨拶を述べ、火葬場へ移動することになった。

【関連記事】4-2 葬儀14-3 葬儀2

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※写真は葬儀で参列者が手向けたカラフルなカーネーション

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2024年10月22日

4-3 葬儀2

葬儀は2024年1月7日に一日葬として執り行うことになった。

九州に住む兄夫婦も1月6日の昼過ぎに上京した。

その夕方に、母の亡骸を斎場に移動することになったため、私達家族も会場へ向かった。
祭壇の設えが施されるなか、母の亡骸と対面した。納棺師により体を清拭後、キレイに化粧が施され、旅立ちの衣装に着替え、棺に収まっていた顔は、穏やかに微笑んでいた。

母は花が大好きだったので、旅立ちの衣装には桜の刺繍が施されたもの、棺には桔梗の柄が描かれたものを選んだ。元も子もない言い方だが、火葬してしまえば全て灰になってしまうから、スタンダードなもので良いという意見もあるかもしれないが、最後だからこそ、母が気持ち良く旅立てるように、好きなものに囲ませてあげたい、という親心ならぬ子供心から、姉と相談し決めた。

美しい花々をふんだんに飾ってもらったおかげで、麗しい祭壇に仕上がった。
私の職場からも立派な供花が届き驚いた。最初は職場からの香典等は全て辞退したいと思っていたが、上司から手配していると話を聞いたこともあり、甘んじて頂戴することにした。

最近の主流として、職場などでは香典を断るケースが増えている。上司や同僚等に余計な気を遣わせないこともあるが、返礼等のこともあるので、お互いそこは…という風潮になっている。

だが、組織としての供花は、祭壇に眠る御霊(みたま)を慰めるためでもあり、私を育ててくれた亡き親への感謝の意ではないか?ということに思い至った。

私が子供の頃、母が褒めてくれたことは数えるほどしかなく、万事において厳しい親だった。
そんな母が「この組織で働いていることを喜んでいた」という話を知人らから聞かされた時、職場から供花があったことは、御霊(みたま)としても嬉しいことであったろうし、子育ての成果がそこに現れていた、とも解釈出来る。

人の生きざまはこういう場面においても証明されるのだな…と思った出来事だった。

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※写真はイメージです。

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2024年10月21日

4-2 葬儀1

2024年1月1日(月)18:10、母の死亡が医師により確定された。

母がこうなることは予測しており、事前に葬儀屋には相談をしていたので、連絡をするとすぐに病院に迎えに来てくれ、葬儀までは亡骸を預かってもらえることになった。

葬儀場は1月3日まではどこも休みなので、葬儀は4日以降となるが、希望の斎場や火葬場が空いているかどうかは1月4日にならないと分からない。

我が家が信仰する教会の先生(教会長)に祭主を務めていただくので、教会長、葬儀屋と葬儀の日取りや段取りについて、1月2日の午後に教会で打ち合わせをした。

その際、神道の祭壇にすること、お供え物、花、棺、旅立ちの衣装、亡骸の清拭…等といった細々した事柄もひとつひとつ決めていった。その際重視したのは、母が喜ぶであろう形だ。
神道では通常榊を供えるが、母は花が好きだったので、それをカラフルな花に変え、参列してくださった方に手向けてもらうことにした。

葬儀場等の正式な回答は4日以降になるものの、我が家の近所の斎場と火葬場を仮押さえすることとなった。
私の職場での忌引き休暇が、死亡の日より7日までということもあり、出来れば7日までに葬儀が出来ると助かるな…と思っていたところ、ありがたいことに1月7日(日)に葬儀、火葬の段取りが付いた。

それに向けて、葬儀で必要な母の年表(祭主が神様に人生の御礼を申し上げるため、母の略歴を祝詞(のりと)にして奏上する)作成、家族構成表、葬儀内容に必要な書類の作成、葬儀に参列する方の手配、葬儀場、火葬場で必要な書類や移動手段の手配、九州の兄夫婦の上京の手配…等々、やることはてんこ盛りだった。

人の最期は人それぞれだが、母の場合は天寿を全う、大往生なので、悲しむというより、ある種の祝いだ。母の人生を褒め、讃え、見送る儀式なので、盛大に賑やかに見送ってあげたいと思った。

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2024年10月20日

4-1 元日に逝く

2024年1月1日。
我が家は神道を信仰しているので、元日にはその祭典がある。
信仰は母の母、私の祖母の代から続いており、元日には必ず家族揃って初参拝に行くのが習わしだ。

私が参拝する教会は朝7時からの祭典で、それが終わった帰りの電車の中で病院から電話をもらい、母の意識レベルが低いことを告げられ、すぐ病院に来るようにと言われた。

姉にも連絡をし、夫婦揃って病院に駆けつけてくれた。
母の顔色は土気色と化しており、口も空いていたので、本当にこれがもうギリギリなのだと覚悟した。
2時間ほどいたが状態が変わらないので、昼過ぎに一度帰宅し、何かあったら連絡をくれるように看護師に頼んだ。

姉が参拝する教会の元日祭は午後1時半からなので、姉もそれに家族と共に参拝出来た。

母が信仰を持つきっかけは祖母の影響だが、母自体が多くの苦労を抱えており、神様にすがるしかない、それを拠り所としてその時々で大きなおかげを頂きながら歩んできた人生だった。なので、私達姉妹も幼い頃より、教会参拝することを勧められたし、おかげを頂いての日々であることを実感していたので、何を置いても教会行事に穴を空けてはならない!という母の強い願いがそこにあった。

元日祭が終わるまで、それまでは死ねない!いや、死なない!!という、母の潜在意識の成せる業?いや、母の願いを、祈りを、神様が聞いてくださったのだ。

午後5時過ぎ、病院より電話があり、心拍数が落ちてきたので、すぐ病院に来るように、とのことだった。その数分後、呼吸が止まったと、再度電話があった。

結局、死に際を看取ることは出来なかったものの、教会の元日祭には姉妹家族揃って参拝出来たことは、母の願いを叶えたことになるので、むしろ安心して旅立ったのだろうと…。

こうして、母の92年に亘る一生に幕が下りた。

母の亡骸を撫でながら「良くがんばったね!!偉かったね!!」と褒め讃えた。
まさに、アッパレ!!な最期だった。

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