2024年07月

2024年07月31日

2-31 認知症発症

母が90歳を迎える頃には、体力、認知力も以前より目に見えて衰えてきた。
物忘れは言わずもがなだが、1日中ぼ~っとしていたり、急に怒ったり泣いたり…といった情緒不安定さが目立ち始めた。

3月にかかりつけ医での診察の際に、主治医の勧めで認知症検査(長谷川式認知症スケール)を受けることになった。結果は認知症を発症している恐れがあるとのことで、一度大学病院でMRI検査を受けたほうが良いと勧められた。

2021年4月の始めに検査を受け、2週間後に結果を聞きに行くと「レビー小体型認知症」であるとの診断が下った。

※ここ(赤文字箇所)からはMedical Noteサイトより引用
レビー小体型認知症とは、異常なタンパクの蓄積による“レビー小体”が脳の広い範囲(大脳皮質)にたまることで、記憶や動作などに障害が現れたり、見えないものが見える“幻視”などの症状が現れたりする病気です。

アルツハイマー型認知症、血管性認知症とともに“三大認知症”と呼ばれていて、認知症の中ではアルツハイマー型認知症に次いで患者数が多いといわれています。

上記の症状が特徴で、特に有効な治療法もなく、日々の生活で症状が進まないようにするしかないとのこと。例え薬を処方してもらったところで、薬漬けにするだけなので、それは断った。それよりも、母が穏やかに日々を過ごせるよう工夫していくほうが有効だろう…と。

それに、90歳まで発症することなく無事に過ごせたこと自体がまさに奇跡なので、そのことに感謝し、これから母の新たな境地を楽しみにする!くらいの気持ちでいたほうがラクなのかも…と思うことにした。また、母の場合、レビー小体型認知症である以前から、普通の人には見えないモノが見えていたので、今更それに驚くこともないし、果たして本当に認知症なのか?と疑うくらいのノリでいることにした。

認知症というフレーズに恐れおののくことなく、冷静に客観的に次の一手を考えることにした。

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2024年07月30日

2-30 シアワセな90歳

2021年も明け、新年を姉家族と共に寿ぎ、また日常が始まった。
1月7日から2回目のコロナ感染による緊急事態宣言が発令され、更に私のテレワーク勤務は継続となった。そのおかげで母は安心して生活が出来、運動施設にも元気に通っていた。

一見元気そうに見える母だが、2020年の秋頃から筋力が低下し始め体重も減ってきた。以前から足腰の痛みはあったものの、頻繁に訴えるようになった。

運動施設に通所しない時は1日中こたつに潜っているか、テレビを観ていてもすぐにうたた寝を始めるし、目を離すと椅子から落ちることもあった。

3月になると母は90歳を迎え、姉家族と共に誕生祝をした。

この頃、月に一度のご褒美として、近所で見つけた美味過ぎるケーキを堪能していたが、誕生日には奮発してバースデーケーキを注文した。母もここのケーキが大好物で、この店のものを食べ始めてからは、普通のそれには見向きもしなくなったほどだ。
姉宅にて孫やひ孫達に囲まれ、ハッピーバースデーを歌い祝ってもらった。

世間には今日、明日をどう生きるか路頭に迷っている者、介護に疲れ果て、親に八つ当たりする者もいるかもしれない。
そんな殺伐とした介護生活ではなく、母は子、孫、ひ孫達から大切にされ、シアワセな90歳をスタートすることが出来た。

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※母の誕生日に注文したいちごのモンブラン

2024年07月29日

2-29 2020年も無事に

九州からの帰省旅行後は旅の疲れが出たようで、運動施設も1度お休みしたが、12月に入ってからはまた元気に通うことが出来た。

とはいえ、ここのところ楽しいことが続いていたせいか、少々わがままモードに突入しており、少し気に入らないことがあると、キレルようになった。

それは、自分で自分の身がままならず、着替え、トイレ、入浴といった生活全般に亘り、一人でこなせないことが増えてきたことによるストレスがそもそもの原因で、私が世話を焼けば焼くほど、苛立つようになり、ある時「自分のことは自分でやるから手を出さんでいい!!」と言い出したことがあった。

とはいえ、決してそう出来ないことは本人が一番分かっているうえ、右を見て左を見たら先ほどのことは忘れているという、何とも都合の良い?思考回路になっているので、少し時間が経てば暴言などなかったように「トイレ…」と、気弱なことを言い出す始末だ。

母の抱えるストレスは頭では理解しているが、心の声をダイレクトに受け止めてしまうことは、私にとってなかなかのダメージとなる。だが、ここでそれを真に受けていたらこちらが病んでしまう!ということで、右から左へ受け流すことにした。

2020年も無事に終えることが出来たものの、介護のハードルはどんどん上がっていくし、予測不能なことばかり起きてくる。

2021年はどんな年になることやら!?

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2024年07月28日

2-28 最後の帰省

2020年11月に入ってからも母の調子は良く、運動施設にも休みなく通っていた。
11月20~25日まで、母(89歳)と私は九州へ帰省旅行をした。

今回も羽田空港ではJALオリジナルの木製の車いすのお世話になり、介護を必要とするお手伝いもいただいた。飛行機大好きな母はテンション高く、いつものように機内では窓越しに見える景色を楽しんでいた。

福岡空港では兄夫妻が車いすを準備し、出迎えてくれた。
空港でランチを済ませた後、郷里に向かい、母の幼馴染の自宅を訪ねた。

二人共再会に嬉し涙を流しながら、いつもは言葉がうまく出ない母だが、この時ばかりは子供時代に戻ったように、会話を楽しんでいた。
母と幼馴染を二人にして、兄夫妻と私はその近辺を散策。1時間ほどして母を迎えに行き、ホテルに戻り、ディナーを堪能、その後温泉に浸かり就寝した。

翌朝、母の幼少期を過ごした町に行った。そこには大きな川が流れており、朝陽が当たって輝くその光景は何とも幻想的で、母も懐かしそうに眺めていた。

ホテルで朝食を済ませた後、母のいとこにあたる親戚の家へ向かった。
いとこであるおばさんは施設に入っており、コロナ禍で会うことは叶わなかったが、その子供達に会うことが出来、母も喜んでいた。

その後、飯塚方面へ向かい、川沿いのホテルに宿泊。そこでも美しい景色とおいしい料理に舌鼓を打ち、ゆっくり流れる時間を楽しんだ。

2日間ホテル滞在をした後は兄宅へ向かい、まったり寛がせてもらった。
兄は九州在住につき普段は母となかなか会えないので、兄宅で3泊もさせてもらえたことはとてもありがたいことだった。

義姉はいつも母のことを気にかけてくれており、普段から電話をくれたり、何やかやと心配してくれる。そんな義姉は、私がいつ兄宅を訪ねても笑顔で迎えてくれ、出来る限りのことをしてくれるし、忌憚ない会話も出来る、私にとってもありがたい存在だ。

義姉は料理上手でもあるので、母や私が好きそうなものを調理してくれる。母にとっては嫁ではあるものの、私達姉妹よりも義姉のほうが好きだ!と、常々公言するほど仲が良かった。それは兄にとっても嬉しいことだったろうし、私達姉妹にとっても同様だ。
そんな兄夫妻との家族水入らずの幸せな時間はあっという間だった。

帰りの機内でも、母は名残惜しそうな様子だった。
そして、これが母にとって最後の帰省となった。

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※羽田空港ロビー内にてクリスマスツリーを前にした母。

2024年07月27日

2-27 孫の結婚式3

母の股関節の痛みも和らいだ2020年10月31日、5人いる孫のうち、最年少である姉家の次女の結婚式に参列した。

この子は幼い頃より、学生時代も下校途中に我が家に寄ってはテレビを一緒に観たり、おやつを食べたり、コタツに潜りこんで眠ってしまったり、宿題をやって帰ったりするような子だった。大人になってからも、浴衣の着付けをしてくれだの、成人式の着物姿を見てくれだの…と言ってはやって来た一番身近にいた孫娘で、2017年の九州旅行も同行していた。

その子が1年前に入籍したものの、コロナ禍で式が延期となっていたが、晴れてこの日に結婚式、披露宴を行えることになった。

兄家の長男、次男に続き、姉家の次女の結婚式への参列が叶ったわけだが、これってまさに奇跡!としか言いようがないだろう。

今回は東京での式だったので、地方に出向く必要はないとは言え、母の状態や移動手段、長時間の式や披露宴に絶え得るだけの体力が持つか?といった難題があるなか、家族協力のもと、みたびの喜びの場に立ち会えた。

おそらく一番母の世話になった彼女は「バアバに見て欲しい」と以前より話していたので、共に願いが叶ったと言っても過言ではない。

介護が必要になってからも、母の歩んで来た人生の「お返し=幸福」は、まだまだ続くのだった。

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※スカイツリーの見えるホテルでの孫娘の結婚式の様子。