2024年10月

2024年10月26日

4-7 葬儀後2

母の葬儀後、日常が戻ってきたように見えるものの、その後の事後処理があった。

死亡届は葬儀屋から役所に提出されたので、無事に葬儀が出来た。
後は年金、保険証(国民健康保険・後期高齢者医療制度等、介護保険被保険者証、介護保険負担割合証等)の返還、国民健康保険加入者葬祭費の請求、住民票・戸籍等の証明発行…といった役所での手続きや、葬儀に参列いただいた方、遠方より香典を送ってくださった方々への返礼など…諸々の手配が必要だった。

母の知人はもとより、生前、我が家に遊びに来ていた友人らからも、お花や香典をいただいた。母のこともそうだが、私のことも心配し、方々から連絡をくださったり、葬儀後に自宅まで参拝に来てくれた友もいる。

我が家が信仰する神道では、十日祭、二十日祭、三十日祭、四十日祭、五十日祭と、節目に御霊を祭る。これは任意ではあるものの、母の信仰心を讃える意味もあり、きっちり全ての祀りを教会にて行った。
五十日祭が一つの節目であり、あとは納骨までに、もろもろの準備を粛々とこなしていくだけだった。

四十日祭が終わった2月11日より、前年に予約していた沖縄旅行を友達と行ったのだが、そこは2015年に母と泊まった場所だ。
ホテルは今年で45周年の節目の年で、お祝いムードが漂っていた。沖縄本島の最北にあるので、コロナ禍にも負けず営業存続出来たこと、母との思い出の場所に還ってこれたことは、嬉しいことだった。
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翌週18日には五十日祭を終え、3月10日には無事に納骨まで済ませ、これで完全に母を見送るための儀式、手続きは完了した。とはいえ、その後も行政関連の書類提出などのやりとりは続いた。

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2024年10月25日

4-6 葬儀後1

母の葬儀を無事に終えた晩は、家族皆で夜の宴を催した。
九州から上京した兄夫婦とは滅多に会えないので、母の思い出話を肴に?皆で楽しいひと時を過ごすことが出来た。

もし母が何かの病気や事故などで亡くなっていたとしたら、このような宴を開く気にはなれなかっただろう。92歳という大往生で、子、孫、ひ孫らにも別れを告げ、旅立って行けたのだから、これほど目出度いことはない!!

翌1月8日は祝日のため、葬儀で供えられていた食材を調理し、我が家で再びの宴を開いた。
供え物には大きな鯛があり、それを捌く大仕事?があり、義姉と二人で解体に挑み、それを供え物にあった大根と一緒に煮た。大きな鍋いっぱいにあったそれも、家族皆で食べるとあっという間に無くなった。

母の子供の頃からの古いアルバムがあったので、それを皆で見ながら、改めて母を偲んだ。
私達の知らない母の若かりし頃のこと、兄、姉、私の幼少期のそれなどを皆で見ては大笑いし、話に花が咲いた。
我が家の神棚には母の遺骨と遺影が置かれている。母もきっと一緒に皆とこの宴を楽しんでいるのだろうな…と思えたひと時だった。

母の死という一見悲しく見える出来事であっても、私達家族にとっては、無事に母を見送れた安堵感と、家族の絆を再確認出来た感慨深い日となった。

翌9日、兄夫婦は九州へと帰った。私は日常モード再開で、職場へ通勤した。

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※写真はイメージです。

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2024年10月24日

4-5 葬儀4

2024年1月7日、葬儀を終えた後、11時半に出棺。
12時、火葬場にて祭主が火葬の儀を執り行い、母と最後の別れの時を迎えた。

火葬の間、家族、親族、知人ら会葬者は、火葬場の広間にて昼食を頂いた。
母が大往生での今世との別れなので、悲壮感はまったく無く、皆で母の思い出話などで盛り上がった。

なかでも印象深かったのは、姉の夫である、母から見ると義理の息子が皆の前で挨拶をした際、若い頃、姉と結婚したいと我が家に来た時の話や、その後子供達(母から見たら孫)が生まれ、少しずつ母と仲良くなっていく様が語られ、義兄にも母との思い出がたくさんあったのだな…と、しみじみしてしまった。

食事の間、葬儀屋との会計精算があった。こういう場面は何ともリアルな日常を突き付けられた感があるものの、母が願った通りの葬儀、火葬が出来たこと、葬儀屋はそれが仕事ではあるものの、短期間でこちらの希望を最大限叶えてくれたことには感謝しかない。

火葬終了の案内後、会葬者全員で収骨をする際、ひ孫達はその骨をジーっと見つめ、フリーズしていた。
幼い子供にはショッキングなことかもしれないが、こういう場面を体験することで、人の死を学び、自分達に繋がっている命があることを何となくでも感じてもらえたら、それが人生の糧となってくれたらな…と、思わずにはいられなかった。

子、孫、ひ孫達、会葬者全員で母の骨を壺に収めることが出来た。

母の遺影、骨壺を携え、私達家族は帰宅の途に着いた。

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2024年10月23日

4-4 葬儀3

2024年1月7日、母の葬儀が10時より斎場にて行われた。

この日の受付は、姉家の長男(私から見たら甥)と、その娘(中3)が担当してくれた。
赤ん坊の時から見ていた甥が、今や父となり、その娘は母にとって初ひ孫でもある。
そんな二人がきちんと受付の対応をしている様を見て、私も嬉しかったし、何より母が喜んでいるだろうと思った。

以下、式次第。
①参向(祭主 入室)
②会葬者一同にて拝礼(一礼、偲び手(音を立てない)四拍手、一礼)後、神様への御礼の拝詞を唱える。
③祭主 告詞(故人の御霊に対し、今からご葬儀をお仕えすることを告げる)を奏上。
④祭主 霊標奉斎(故人の御霊としてのお名前を掲げる)
⑤祭主 祭詞奏上(生涯お世話になった天地のお働きに対し、故人に代わり、生前の御礼を申し上げ、同じくお働きを受け続けられるようお願いを申し上げる。続いて故人に対し、死を悼み、御姿にお別れを申し上げる)
⑥祭主 献花
⑦遺族、親族、会葬者 献花
⑧一同 新しく御霊となった故人への拝詞を唱える。
⑨一同 拝礼(一礼、偲び手(音を立てない)四拍手、一礼)
⑩退下(祭主 退出)

以上で一般で言うところの告別式が終了した。
この神道での葬儀は、母が生前より願っていたことであり、そのためにも九州より墓を移送し、改式をした経緯がある。母の長年の祈りが結実した瞬間だ。

その後、出棺のため、棺に会葬者全員で花や供え物を手向け、長男(喪主)である兄が会葬の御礼挨拶を述べ、火葬場へ移動することになった。

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※写真は葬儀で参列者が手向けたカラフルなカーネーション

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2024年10月22日

4-3 葬儀2

葬儀は2024年1月7日に一日葬として執り行うことになった。

九州に住む兄夫婦も1月6日の昼過ぎに上京した。

その夕方に、母の亡骸を斎場に移動することになったため、私達家族も会場へ向かった。
祭壇の設えが施されるなか、母の亡骸と対面した。納棺師により体を清拭後、キレイに化粧が施され、旅立ちの衣装に着替え、棺に収まっていた顔は、穏やかに微笑んでいた。

母は花が大好きだったので、旅立ちの衣装には桜の刺繍が施されたもの、棺には桔梗の柄が描かれたものを選んだ。元も子もない言い方だが、火葬してしまえば全て灰になってしまうから、スタンダードなもので良いという意見もあるかもしれないが、最後だからこそ、母が気持ち良く旅立てるように、好きなものに囲ませてあげたい、という親心ならぬ子供心から、姉と相談し決めた。

美しい花々をふんだんに飾ってもらったおかげで、麗しい祭壇に仕上がった。
私の職場からも立派な供花が届き驚いた。最初は職場からの香典等は全て辞退したいと思っていたが、上司から手配していると話を聞いたこともあり、甘んじて頂戴することにした。

最近の主流として、職場などでは香典を断るケースが増えている。上司や同僚等に余計な気を遣わせないこともあるが、返礼等のこともあるので、お互いそこは…という風潮になっている。

だが、組織としての供花は、祭壇に眠る御霊(みたま)を慰めるためでもあり、私を育ててくれた亡き親への感謝の意ではないか?ということに思い至った。

私が子供の頃、母が褒めてくれたことは数えるほどしかなく、万事において厳しい親だった。
そんな母が「この組織で働いていることを喜んでいた」という話を知人らから聞かされた時、職場から供花があったことは、御霊(みたま)としても嬉しいことであったろうし、子育ての成果がそこに現れていた、とも解釈出来る。

人の生きざまはこういう場面においても証明されるのだな…と思った出来事だった。

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※写真はイメージです。

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