肺炎
2024年10月19日
3-55 Chapter3の振り返り
Chapter3では、2022(91歳)年~2023(92歳)年の間の出来事を綴ってきた。
2022年の1月の時点ではまだ小規模多機能型居宅介護施設でお世話になっていたものの、週一度の帰宅、ショートステイで預かってもらうなか、身体能力は日に日に衰え、転倒事故も増えた。
その最中でも、スタッフの方たちには可愛がっていただき、大切にしてもらえたことは、家族としてありがたい限りだった。
4月には要介護3⇒要介護5へと査定が上がり、前年に申し込んでいた特別養護老人ホームの空きが出て、5月には特養への入所が決まった。
「母を特養に入れる=滅多に会えない、二度と家に帰ることはない」ことに少しの罪悪感を抱きつつも、これまでの介護に悔いはなく、むしろ達成感を覚えた私だった。
母が特養に入ったことで、副業として整体院を開業することになり、店舗兼住宅物件を見付け、5月末の引っ越しが決まった。母、娘共に怒涛の環境変化により、不調を来たすこともあったものの、日を追うごとにその環境にも慣れていった。
当時はコロナ禍であり、面会にも制限があったため、我が家は月に一度の外出許可をもらい、家族で母とのひと時を過ごすことが出来ていた。
足腰の弱った母の歩行もおぼつかなくなるものの、トイレだけは何とか歩いて行き、スタッフの力を借りながら、用を足すことが出来ていた。
母が特養に入所して4カ月を迎える頃には精神的にも落ち着き、他入所者やスタッフとも打ち解けられるまでになったものの、ベッドからの落下や廊下、歩行中の転倒の回数も増えていった。幸いにも大きな怪我には至らずに済んだが、その度にスタッフの皆様のお手間をかけることとなった。
11月には特養内にてコロナ感染があり、外出も面会も禁止となった。母自身は施設内での感染が収束する頃罹患したものの、何とか生還することが出来た。コロナ禍で外出も出来なかったことや、自らの罹患で精神的に不安定な日が続き、転倒が相次いだ。
日に日に肉体は退化するばかりではあるものの、生かされている日々を精いっぱい生き抜いた2022年も無事に終わり、2023年を迎えた。
2023年には面会も緩和され、母の外出も容易になったため、これまで通り月一度は外出し、家族に囲まれた時間を過ごすことが出来た。
3月は母の誕生月であり、この年が母にとって最後のそれとなったが、家族で祝うことが出来た。
誕生日後から5月くらいにかけて、気候の変化が影響してか?立腹することが多くなった母。穏やかな心持ちになれず、周囲も本人も辛かった日々が続いた。
母の心身の不調に合わせるように?私も、長年の睡眠負債、介護疲れからか、同時期に高血圧に見舞われた。その時々を懸命にこなしていただけだが、体が悲鳴を上げた。
6月になると精神的に落ち着きを取り戻した母。木の芽立ちの季節を無事に乗り越えることが出来た。
7月には長男家の息子家族が地方から上京し、面会に来てくれた。7人目のひ孫にも会えた母だった。
8月中旬には40℃超えの発熱があり、救急搬送され敗血症の診断が下ったものの、奇跡的な快復で3週間の入院予定が2週間で退院し、特養に戻ることが出来た。
退院後は施設で発熱することが増え、徐々に寝たきりの生活になっていったが、時には体調の良い時もあり、11月までは何とか月一度の外出も叶えることが出来た。
12月の中旬に肺炎を発症した母。そのまま緊急入院となったものの、肺を始め、他臓器が終息に向かっており、年内の退院は難しいし、いつ何があってもおかしくない状況であることを覚悟する必要があった。
それもで、母の生きる力、生かされての2023年を、無事に乗り切ることが出来たのだった。

2022年の1月の時点ではまだ小規模多機能型居宅介護施設でお世話になっていたものの、週一度の帰宅、ショートステイで預かってもらうなか、身体能力は日に日に衰え、転倒事故も増えた。
その最中でも、スタッフの方たちには可愛がっていただき、大切にしてもらえたことは、家族としてありがたい限りだった。
4月には要介護3⇒要介護5へと査定が上がり、前年に申し込んでいた特別養護老人ホームの空きが出て、5月には特養への入所が決まった。
「母を特養に入れる=滅多に会えない、二度と家に帰ることはない」ことに少しの罪悪感を抱きつつも、これまでの介護に悔いはなく、むしろ達成感を覚えた私だった。
母が特養に入ったことで、副業として整体院を開業することになり、店舗兼住宅物件を見付け、5月末の引っ越しが決まった。母、娘共に怒涛の環境変化により、不調を来たすこともあったものの、日を追うごとにその環境にも慣れていった。
当時はコロナ禍であり、面会にも制限があったため、我が家は月に一度の外出許可をもらい、家族で母とのひと時を過ごすことが出来ていた。
足腰の弱った母の歩行もおぼつかなくなるものの、トイレだけは何とか歩いて行き、スタッフの力を借りながら、用を足すことが出来ていた。
母が特養に入所して4カ月を迎える頃には精神的にも落ち着き、他入所者やスタッフとも打ち解けられるまでになったものの、ベッドからの落下や廊下、歩行中の転倒の回数も増えていった。幸いにも大きな怪我には至らずに済んだが、その度にスタッフの皆様のお手間をかけることとなった。
11月には特養内にてコロナ感染があり、外出も面会も禁止となった。母自身は施設内での感染が収束する頃罹患したものの、何とか生還することが出来た。コロナ禍で外出も出来なかったことや、自らの罹患で精神的に不安定な日が続き、転倒が相次いだ。
日に日に肉体は退化するばかりではあるものの、生かされている日々を精いっぱい生き抜いた2022年も無事に終わり、2023年を迎えた。
2023年には面会も緩和され、母の外出も容易になったため、これまで通り月一度は外出し、家族に囲まれた時間を過ごすことが出来た。
3月は母の誕生月であり、この年が母にとって最後のそれとなったが、家族で祝うことが出来た。
誕生日後から5月くらいにかけて、気候の変化が影響してか?立腹することが多くなった母。穏やかな心持ちになれず、周囲も本人も辛かった日々が続いた。
母の心身の不調に合わせるように?私も、長年の睡眠負債、介護疲れからか、同時期に高血圧に見舞われた。その時々を懸命にこなしていただけだが、体が悲鳴を上げた。
6月になると精神的に落ち着きを取り戻した母。木の芽立ちの季節を無事に乗り越えることが出来た。
7月には長男家の息子家族が地方から上京し、面会に来てくれた。7人目のひ孫にも会えた母だった。
8月中旬には40℃超えの発熱があり、救急搬送され敗血症の診断が下ったものの、奇跡的な快復で3週間の入院予定が2週間で退院し、特養に戻ることが出来た。
退院後は施設で発熱することが増え、徐々に寝たきりの生活になっていったが、時には体調の良い時もあり、11月までは何とか月一度の外出も叶えることが出来た。
12月の中旬に肺炎を発症した母。そのまま緊急入院となったものの、肺を始め、他臓器が終息に向かっており、年内の退院は難しいし、いつ何があってもおかしくない状況であることを覚悟する必要があった。
それもで、母の生きる力、生かされての2023年を、無事に乗り切ることが出来たのだった。

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2024年10月14日
3-50 最後の時5
12月23日、世間はクリスマスムード一色で、私も以前より友達宅に伺う約束をしていたが、母のことを話すと、逆に友達が都心に出向いてくれ、病院の近くでランチをすることになった。
頭の片隅には常に母の顔が浮かぶものの、だからと言って自分の生活も大切にしなければ…ということで、クリスマスランチを堪能後、面会時間には母の元へ向かった。
母に声をかけるものの、この日は目を覚ますこともなく、たまに「う~~ん」と唸り声をあげるだけでずっと眠り続けていた。手と足がむくんでいたので、少しの間さすり続けた。
ベッドでずっと寝ているだけなので、体内循環の働きも緩慢となり、点滴だけの栄養であっても、体はむくみ排出機能が万全でないことが分かる。
翌24日に面会に行くと、ちょうど姉も来ていたので、二人で母に会った。
着いた時は眠っていたが、何やらムニャムニャ寝言を言っており、声をかけると目を開けた。
最初はぼんやりしていたが、そのうち私達のことを認識出来た様子。
手をさすったり、背中を撫でたりすると「いい~、いい~」と言う。それは「私のことはいいから、早く帰りなさい」ということだろう…と。
自分が瀕死の状態にあっても、子供に面倒をかけること、その身を案じる思いが消えないこと、親の思いとは尊いものだと改めて思わされた。
面会時間の30分が過ぎる頃、母に手を振って別れを告げると、それまでじっとしていた母が布団から手を出し「バイバイ」と振り返してくれた。
どこにそんな力が残っているのだろう!と驚いた。子供に心配をかけまいと、母の本能がなせる業だったのかもしれない…ふと、そんなふうに思えてならなかった。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1/3-47 最後の時2/3-48 最後の時3/3-49 最後の時4

頭の片隅には常に母の顔が浮かぶものの、だからと言って自分の生活も大切にしなければ…ということで、クリスマスランチを堪能後、面会時間には母の元へ向かった。
母に声をかけるものの、この日は目を覚ますこともなく、たまに「う~~ん」と唸り声をあげるだけでずっと眠り続けていた。手と足がむくんでいたので、少しの間さすり続けた。
ベッドでずっと寝ているだけなので、体内循環の働きも緩慢となり、点滴だけの栄養であっても、体はむくみ排出機能が万全でないことが分かる。
翌24日に面会に行くと、ちょうど姉も来ていたので、二人で母に会った。
着いた時は眠っていたが、何やらムニャムニャ寝言を言っており、声をかけると目を開けた。
最初はぼんやりしていたが、そのうち私達のことを認識出来た様子。
手をさすったり、背中を撫でたりすると「いい~、いい~」と言う。それは「私のことはいいから、早く帰りなさい」ということだろう…と。
自分が瀕死の状態にあっても、子供に面倒をかけること、その身を案じる思いが消えないこと、親の思いとは尊いものだと改めて思わされた。
面会時間の30分が過ぎる頃、母に手を振って別れを告げると、それまでじっとしていた母が布団から手を出し「バイバイ」と振り返してくれた。
どこにそんな力が残っているのだろう!と驚いた。子供に心配をかけまいと、母の本能がなせる業だったのかもしれない…ふと、そんなふうに思えてならなかった。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1/3-47 最後の時2/3-48 最後の時3/3-49 最後の時4

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2024年10月13日
3-49 最後の時4
12月16日は病院からの呼び出しもあったので、私が14時頃に行った。その後、姉宅の長女(私から見たら姪)が一人で見舞いに来ていたそうで、姉夫妻が15時頃病院に着いたら娘がいたので驚いた、と報告があった(姉と私は1時間差で面会)。
姪は結婚して都心から車で1時間以上かかるところに住んでいるので、実家にもそう簡単には戻れないし、バアバの見舞いに来るにあたっても、姪の子供達のことなどを考慮しつつ、馳せ参じてくれたのだろうと思うと、その気持ちはバアバにも十分伝わっているだろうと思った。
翌17日は日曜日だったので、連日面会に行った。
HCUにいる母は眠っていたが、看護師より「声をかけると起きますよ」と言われたので声をかけると、目を覚ました。「昨日は孫が来てくれて良かったね、外は寒くなったよ…」といったことを話すと、母は夢うつつのような表情ではあるものの、時折「う~~」と唸っていた。
この日も朝から発熱していたが、当初より痰の量も減ってきたと、看護師より話があった。
12月18日、病院より電話で「この日よりHCUを出て一般病棟に移る」と連絡が来た。
HCUは10分間の面会しか許されなかったが、一般病棟だと30分はいられるので、すぐにでも馳せ参じたいところだが、私の仕事が火急を要する状況下のため、平日は姉に面会を頼んだ。
12月19日、姉が面会に行くと、6人部屋に移されており、30分弱病室にいたそうだ。母は眠っている様子だったが、姉が声をかけ、話をすると、時折目を開けたり、反応したりするうちにまた眠ったり…を繰り返したそうだ。
この頃の母の状況は以下の通り。特養からも状況報告を促されたので、その旨伝えた。
〇自力呼吸では肺の隅々まで酸素が行き渡らないため、現在も0.5リットルの酸素を吸入している。
11日に搬送された時よりは少しだけ良い状態ではあるものの、余談を許さない状況には変わりなかった。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1/3-47 最後の時2/3-48 最後の時3

姪は結婚して都心から車で1時間以上かかるところに住んでいるので、実家にもそう簡単には戻れないし、バアバの見舞いに来るにあたっても、姪の子供達のことなどを考慮しつつ、馳せ参じてくれたのだろうと思うと、その気持ちはバアバにも十分伝わっているだろうと思った。
翌17日は日曜日だったので、連日面会に行った。
HCUにいる母は眠っていたが、看護師より「声をかけると起きますよ」と言われたので声をかけると、目を覚ました。「昨日は孫が来てくれて良かったね、外は寒くなったよ…」といったことを話すと、母は夢うつつのような表情ではあるものの、時折「う~~」と唸っていた。
この日も朝から発熱していたが、当初より痰の量も減ってきたと、看護師より話があった。
12月18日、病院より電話で「この日よりHCUを出て一般病棟に移る」と連絡が来た。
HCUは10分間の面会しか許されなかったが、一般病棟だと30分はいられるので、すぐにでも馳せ参じたいところだが、私の仕事が火急を要する状況下のため、平日は姉に面会を頼んだ。
12月19日、姉が面会に行くと、6人部屋に移されており、30分弱病室にいたそうだ。母は眠っている様子だったが、姉が声をかけ、話をすると、時折目を開けたり、反応したりするうちにまた眠ったり…を繰り返したそうだ。
この頃の母の状況は以下の通り。特養からも状況報告を促されたので、その旨伝えた。
〇自力呼吸では肺の隅々まで酸素が行き渡らないため、現在も0.5リットルの酸素を吸入している。
〇口からの食事は摂れておらず、点滴にて高栄養のものを入れている。
〇声をかけると目を開けることもあるが、1日中殆ど眠っている。
〇寝ていても時折上半身や腕を動かしたりしている。
〇今朝も38℃台の発熱あり。ほぼ毎日発熱がある。
以上のことから、年内の退院は難しい、とのことだった。11日に搬送された時よりは少しだけ良い状態ではあるものの、余談を許さない状況には変わりなかった。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1/3-47 最後の時2/3-48 最後の時3

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2024年10月12日
3-48 最後の時3
HCUで集中治療を受けていた母。
12月14日、看護師より歯磨きをしていた時に右下の奥歯が2本取れたという電話があった。以前からグラついていたわけでもないのに、いきなりポロっと取れた…と。
翌日姉が面会に行った際に看護師から渡され、困惑した…と話していた。
入れ歯も差し歯もない、全て自分の歯を92歳まで持ち続けていた母だが、最後は歯を支えるあごの筋力が弱りきったようで、自然と抜けたようだ。
人間の身体は食事を摂らなくなると、みるみるやせ衰えていき、内臓の働きも緩慢となり筋肉も落ちていく。するとそれに支えられていた歯までもが抜けるのか…と、その現実に軽い衝撃を受けた。
母くらいの歳でなくとも、50歳を超える頃から歯茎が下がり、衰えていく話は良く耳にする。そうやって、長年使った身体のパーツも日々終息に向かっているのだなと感じる。
この世に生を受け成長していく過程では、ありとあらゆる生物、物質の世話になり生かされているが、年を経るごとにそれらが不要になっていく。
どんなに強欲な人間であっても、死ぬ時は何ひとつ手にしたまま逝くことは出来ないのだから、要らないものは惜しまず手放し、要る人に渡していけば良い。
こうして母も要らなくなった歯を身体から取り去り、また一つ身軽になったのだろう。
そこに自身の意思があったかは定かではないが、それが自然の摂理であり、それに則った最期を迎えられることは、幸せなことだと思う。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1/3-47 最後の時2

12月14日、看護師より歯磨きをしていた時に右下の奥歯が2本取れたという電話があった。以前からグラついていたわけでもないのに、いきなりポロっと取れた…と。
翌日姉が面会に行った際に看護師から渡され、困惑した…と話していた。
入れ歯も差し歯もない、全て自分の歯を92歳まで持ち続けていた母だが、最後は歯を支えるあごの筋力が弱りきったようで、自然と抜けたようだ。
人間の身体は食事を摂らなくなると、みるみるやせ衰えていき、内臓の働きも緩慢となり筋肉も落ちていく。するとそれに支えられていた歯までもが抜けるのか…と、その現実に軽い衝撃を受けた。
母くらいの歳でなくとも、50歳を超える頃から歯茎が下がり、衰えていく話は良く耳にする。そうやって、長年使った身体のパーツも日々終息に向かっているのだなと感じる。
この世に生を受け成長していく過程では、ありとあらゆる生物、物質の世話になり生かされているが、年を経るごとにそれらが不要になっていく。
どんなに強欲な人間であっても、死ぬ時は何ひとつ手にしたまま逝くことは出来ないのだから、要らないものは惜しまず手放し、要る人に渡していけば良い。
こうして母も要らなくなった歯を身体から取り去り、また一つ身軽になったのだろう。
そこに自身の意思があったかは定かではないが、それが自然の摂理であり、それに則った最期を迎えられることは、幸せなことだと思う。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1/3-47 最後の時2

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2024年10月11日
3-47 最後の時2
2023年12月11日に肺炎のため、8月に入院した病院に搬送された母。
敗血症さえも克服した母の生きる力に医師も驚いたと話していたが、今回はさすがに厳しいかもしれない…とのことだった。
レントゲン写真を見せてもらうと、肺の大半が白く濁っていて、正常な機能がほぼ残っていない状態だった。
病院としては本人が苦しまずに済むよう、内科的処置をするのみとのことで、状態が想像以上に良くなかったため、HCU(高度治療室)に入ることになった。
母自身は意識が朦朧としているため、話しかけても反応はない。あとは病院の処置に委ねるしかない。
12月12日夜8時過ぎに病院から電話があり「発熱が37℃台から38℃台に上がっているのと、血圧が下がってきているので、今夜はどうなるか分かりません」とのことで、携帯はいつでも繋がるようにしてください、と伝えられた。
結局その後病院からの連絡はなかったものの、危ない状況は変わらず続いた。
処方薬や栄養注入のための点滴をするが、腕の血管が細いため、12月13日には中心静脈カテーテル挿入術が行われた。これで点滴がスムーズに出来るようになる。
家族としてはというより、本人の昔からの希望で延命は望んでいないので、自然な形で最期を迎えられるよう病院側にお願いした。医師もそれを承諾し、共に最期に向けてのカウントダウンを歩むことになった。
12月16日に病院より呼び出しがあり、午後に医師から状況説明を受けた。
カテーテル手術は無事成功し、HCUでの手厚い看護のおかげで、少しずつ快方には向かってはいるものの、肺の状態は決して良いものではないとの話だった。
医師の説明後、HCUにいる母の元に行った。母は起きていて、声をかけると私のほうを見上げてくれ、認識しているようだった。その時の母の目は赤ん坊のように澄んでいて、まるで生まれたてのそれのような輝きを放っており「ああ、母は赤ちゃんに還ったんだな…」と実感した。
HCUでの面会時間は10分だが、その間、私に出来ることは何もなく、ただ母の側にいるだけだった。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1

※写真はイメージです。
敗血症さえも克服した母の生きる力に医師も驚いたと話していたが、今回はさすがに厳しいかもしれない…とのことだった。
レントゲン写真を見せてもらうと、肺の大半が白く濁っていて、正常な機能がほぼ残っていない状態だった。
病院としては本人が苦しまずに済むよう、内科的処置をするのみとのことで、状態が想像以上に良くなかったため、HCU(高度治療室)に入ることになった。
母自身は意識が朦朧としているため、話しかけても反応はない。あとは病院の処置に委ねるしかない。
12月12日夜8時過ぎに病院から電話があり「発熱が37℃台から38℃台に上がっているのと、血圧が下がってきているので、今夜はどうなるか分かりません」とのことで、携帯はいつでも繋がるようにしてください、と伝えられた。
結局その後病院からの連絡はなかったものの、危ない状況は変わらず続いた。
処方薬や栄養注入のための点滴をするが、腕の血管が細いため、12月13日には中心静脈カテーテル挿入術が行われた。これで点滴がスムーズに出来るようになる。
家族としてはというより、本人の昔からの希望で延命は望んでいないので、自然な形で最期を迎えられるよう病院側にお願いした。医師もそれを承諾し、共に最期に向けてのカウントダウンを歩むことになった。
12月16日に病院より呼び出しがあり、午後に医師から状況説明を受けた。
カテーテル手術は無事成功し、HCUでの手厚い看護のおかげで、少しずつ快方には向かってはいるものの、肺の状態は決して良いものではないとの話だった。
医師の説明後、HCUにいる母の元に行った。母は起きていて、声をかけると私のほうを見上げてくれ、認識しているようだった。その時の母の目は赤ん坊のように澄んでいて、まるで生まれたてのそれのような輝きを放っており「ああ、母は赤ちゃんに還ったんだな…」と実感した。
HCUでの面会時間は10分だが、その間、私に出来ることは何もなく、ただ母の側にいるだけだった。
【関連記事】3-46 施設での様子20+最後の時1

※写真はイメージです。
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