認知症

2024年10月20日

4-1 元日に逝く

2024年1月1日。
我が家は神道を信仰しているので、元日にはその祭典がある。
信仰は母の母、私の祖母の代から続いており、元日には必ず家族揃って初参拝に行くのが習わしだ。

私が参拝する教会は朝7時からの祭典で、それが終わった帰りの電車の中で病院から電話をもらい、母の意識レベルが低いことを告げられ、すぐ病院に来るようにと言われた。

姉にも連絡をし、夫婦揃って病院に駆けつけてくれた。
母の顔色は土気色と化しており、口も空いていたので、本当にこれがもうギリギリなのだと覚悟した。
2時間ほどいたが状態が変わらないので、昼過ぎに一度帰宅し、何かあったら連絡をくれるように看護師に頼んだ。

姉が参拝する教会の元日祭は午後1時半からなので、姉もそれに家族と共に参拝出来た。

母が信仰を持つきっかけは祖母の影響だが、母自体が多くの苦労を抱えており、神様にすがるしかない、それを拠り所としてその時々で大きなおかげを頂きながら歩んできた人生だった。なので、私達姉妹も幼い頃より、教会参拝することを勧められたし、おかげを頂いての日々であることを実感していたので、何を置いても教会行事に穴を空けてはならない!という母の強い願いがそこにあった。

元日祭が終わるまで、それまでは死ねない!いや、死なない!!という、母の潜在意識の成せる業?いや、母の願いを、祈りを、神様が聞いてくださったのだ。

午後5時過ぎ、病院より電話があり、心拍数が落ちてきたので、すぐ病院に来るように、とのことだった。その数分後、呼吸が止まったと、再度電話があった。

結局、死に際を看取ることは出来なかったものの、教会の元日祭には姉妹家族揃って参拝出来たことは、母の願いを叶えたことになるので、むしろ安心して旅立ったのだろうと…。

こうして、母の92年に亘る一生に幕が下りた。

母の亡骸を撫でながら「良くがんばったね!!偉かったね!!」と褒め讃えた。
まさに、アッパレ!!な最期だった。

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2024年10月19日

3-55 Chapter3の振り返り

Chapter3では、2022(91歳)年~2023(92歳)年の間の出来事を綴ってきた。

2022年の1月の時点ではまだ小規模多機能型居宅介護施設でお世話になっていたものの、週一度の帰宅、ショートステイで預かってもらうなか、身体能力は日に日に衰え、転倒事故も増えた。
その最中でも、スタッフの方たちには可愛がっていただき、大切にしてもらえたことは、家族としてありがたい限りだった。

4月には要介護3⇒要介護5へと査定が上がり、前年に申し込んでいた特別養護老人ホームの空きが出て、5月には特養への入所が決まった。

「母を特養に入れる=滅多に会えない、二度と家に帰ることはない」ことに少しの罪悪感を抱きつつも、これまでの介護に悔いはなく、むしろ達成感を覚えた私だった。

母が特養に入ったことで、副業として整体院を開業することになり、店舗兼住宅物件を見付け、5月末の引っ越しが決まった。母、娘共に怒涛の環境変化により、不調を来たすこともあったものの、日を追うごとにその環境にも慣れていった。

当時はコロナ禍であり、面会にも制限があったため、我が家は月に一度の外出許可をもらい、家族で母とのひと時を過ごすことが出来ていた。

足腰の弱った母の歩行もおぼつかなくなるものの、トイレだけは何とか歩いて行き、スタッフの力を借りながら、用を足すことが出来ていた。

母が特養に入所して4カ月を迎える頃には精神的にも落ち着き、他入所者やスタッフとも打ち解けられるまでになったものの、ベッドからの落下や廊下、歩行中の転倒の回数も増えていった。幸いにも大きな怪我には至らずに済んだが、その度にスタッフの皆様のお手間をかけることとなった。

11月には特養内にてコロナ感染があり、外出も面会も禁止となった。母自身は施設内での感染が収束する頃罹患したものの、何とか生還することが出来た。コロナ禍で外出も出来なかったことや、自らの罹患で精神的に不安定な日が続き、転倒が相次いだ。

日に日に肉体は退化するばかりではあるものの、生かされている日々を精いっぱい生き抜いた2022年も無事に終わり、2023年を迎えた。

2023年には面会も緩和され、母の外出も容易になったため、これまで通り月一度は外出し、家族に囲まれた時間を過ごすことが出来た。
3月は母の誕生月であり、この年が母にとって最後のそれとなったが、家族で祝うことが出来た。

誕生日後から5月くらいにかけて、気候の変化が影響してか?立腹することが多くなった母。穏やかな心持ちになれず、周囲も本人も辛かった日々が続いた。
母の心身の不調に合わせるように?私も、長年の睡眠負債、介護疲れからか、同時期に高血圧に見舞われた。その時々を懸命にこなしていただけだが、体が悲鳴を上げた。

6月になると精神的に落ち着きを取り戻した母。木の芽立ちの季節を無事に乗り越えることが出来た。
7月には長男家の息子家族が地方から上京し、面会に来てくれた。7人目のひ孫にも会えた母だった。

8月中旬には40℃超えの発熱があり、救急搬送され敗血症の診断が下ったものの、奇跡的な快復で3週間の入院予定が2週間で退院し、特養に戻ることが出来た。

退院後は施設で発熱することが増え、徐々に寝たきりの生活になっていったが、時には体調の良い時もあり、11月までは何とか月一度の外出も叶えることが出来た。

12月の中旬に肺炎を発症した母。そのまま緊急入院となったものの、肺を始め、他臓器が終息に向かっており、年内の退院は難しいし、いつ何があってもおかしくない状況であることを覚悟する必要があった。

それもで、母の生きる力、生かされての2023年を、無事に乗り切ることが出来たのだった。

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2024年10月18日

3-54 最後の時9

2023年12月31日、午後より母の面会に行った。
この日も37.8℃の発熱あるも、母は自身の肩を掴んで、グイグイ押していた。無意識の行動ではあるが、まだこんなに力があるのか…と、驚かされた。

看護師に話を聞くと、内臓の機能はいつ何があってもおかしくない状態なのに、覚醒能力が高く、時々目を開けることもあるとのこと。母の生きる気力には驚かされる、と話していた。

発熱してもそれに対する薬は処方しておらず、ブドウ糖のみの点滴を行っていると。尿は出ているか聞くと、点滴をしている分より少し少ないくらいの量が出ているとのことだった。

この時、気になったのは、唇が2か所切れていたことだ。おそらく免疫力が低下していることと、発熱していることもあり、口角炎を発症しているようだった。
この日はブドウ糖の他にタゾピペ(抗生物質)の点滴が増えていた。

母の手を握ったり、脚をさすったりしながら話しかけるものの、目を開けることも、返事をすることもないままだったが、それでもまだ生きている、生かされているのだな…と、眠り続ける母を見ながらぼんやりそんなことを思った。

こうして母は死の淵をソロリソロリ?と歩みながらも、2023年を乗り切ることが出来た。
母が2023年を生き切ろうとしたその理由は…。
無意識であったとしても、潜在意識の中で、母の強い意思、願い、愛情あってのことだということを、年が開けてから分かるのだった。

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2024年10月17日

3-53 最後の時8

2023年12月29日の午前中、私は母の願いで建てた墓に参拝した。
我が家から電車を乗り継ぎ、1時間ちょっとかかる場所にある。

この墓は平成10(1998)年に建てたもので、九州にあった墓仕舞いをした後、先祖の遺骨をこの墓に移葬し、両親もここに入ることを願っていた。

間もなく母もここの住人になることを念頭に置きつつ、2023年も無事に過ごせたことを先祖に感謝し、新しい年を気持ち良く迎えてもらうために、墓をキレイに磨き、美しい花を飾り、美味しいものを供え、母の穏やかな旅立ちと、今後の家族の立ち行きを祈らせてもらった。

その足で午後から母の面会に行った。
昨日、姉から送られてきたどす黒い顔をした母の写真が頭にあったので、少々ビビリモードで病室に入ったが、この日はさほど顔色も悪くなく、発熱しているせいでアイスノンを頭に敷いていた。

意識はなく目を覚ますこともなかったが、手を握るとギュッと握り返してくる。まるで赤ん坊の原始反射のようだった。手を離すと、何やらムニャムニャ寝言を発する。これって、やっぱり赤ちゃんの反応だわ…と。

赤ちゃんとして産まれて、赤ちゃんになって還っていく。まさに理想的な最期だ。
点滴を見るとそれはブドウ糖であり、母はこれだけで生かされていた。

30日は私が他の仕事で手が空かないので、姉夫妻と孫、ひ孫達が面会に行ってくれた。面会は2人ずつしか部屋に入れないので、2回に分けて面会をしたと姉から報告があった。

その時も母はずっと眠ったままだった。

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2024年10月16日

3-52 最後の時7

12月26日、13時からの表彰式を終えると、その足で医師の説明を聞くために病院へ急いだ。
この日は姉にも同席してもらい、一緒に話を聞いた。

私達が病室に着いた時、枕に顔をうずめた母は胆汁を吐いており、その黄色い液体が床まで滴っていたが、忙しく動き回る看護師達はそれに気付いていなかったので、知らせるとすぐに対応してくれた。

医師の説明によると、アルブミン(血液中に100種類以上あるタンパク質のうち、60%を占めるタンパク質の成分)の数値がほぼ無いくらいまで下がっているのと、肝臓の数値が入院した時の10倍以上の値になっており、MRI画像によると、肝臓と膵臓の間くらいに腫瘍らしきものも確認された、とのことだった。

この時点でおそらく膵臓にガンが出来ている可能性があるものの、調べたところで手の施しようもないので、このまま痛まず、苦しまないように処置をするという方向性で話がまとまった。

全ての内臓機能が終息に向かっており、いつ急変してもおかしくない状況とのことだった。

24日に会った時よりガクッと弱り切っていたので、母の顔を見た時は驚きを隠せなかったものの、吐しゃ物を片し、シーツを変えてもらい、キレイにしてもらった後に会った時には、最初見た時よりは幾分精気が戻ったように感じた。

姉が手をさすり、私が声をかけながらビデオを回し、九州にいる兄にも母の状況を知らせた。
話しかけても私達のことをジッと見つめるだけで、反応はないままだった。

28日は私が仕事納めで病院に行けないため、姉が面会に行ってくれた。
その時の写真を見ると、目は空いているものの、顔はどす黒くなり、肝臓機能の衰えが如実に現れていた。

母が私達姉妹を認識出来たのは、26日がおそらく最後であったろうと思う。

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